ご由緒
由緒
創立の年代は不詳であるが、最も古い棟札に「慶長三年霜月二十五日米子総産土賀茂皇大明神再建」と記されており、それ以前に京都上賀茂神社より勧請し創建された事は明らかである。神社周辺の発掘調査によると平安時代には既に人家があり、室町時代には相当の集落が存在したと推測されるので、神社創建もこの時代にさかのぼるのではないかと考えられる。
当神社は米子(旧米子町)最古の社と言われ、歴代米子城主より社殿の建立、修復、社領金子の寄進、祈願所等、米子城鎮護の社として手厚い保護を受け、米子鎮守の神として厚く尊崇される。鎮座地より南西に城山、北西に米子港、弧を描くように町が広がっており、戦国時代の頃まで神社周辺は「賀茂の浦」と呼ばれていた。その頃、野田翁次郎という者が老年になっても子供が無く、畏敬の念を込め祈願したところ八十八歳で子供に恵まれた。以来、稀代の霊験と評判になり、「八十八に因んで米子」と言う地名が誕生したと云う伝説がある。また、境内にある井戸は極古井であり、米子の起源に関係する口碑も残っている。昔、「よなご」と云う地名が無く賀茂の浦であった頃、此の地に住む漁民が飲料水を供するために掘ったもので、その頃は賀茂神社境内の西辺りまで湾で海岸の漁民が一部落をつくり暮していた。古は「米をとぐ」と云う事を「よなぐ」と云ったので「よなぐ井」そして「よなご井」と云った。其の後、飯山に吉川元春が砦を築き、其の麓の部落である此の地を「米子」と云う文字を当てたので、「よなご井」から米子の地名が誕生したのである。この井戸は米子三名水の一つ「宮水」と呼ばれ、上水道が普及するまでは町民に親しまれ、飲料水として売り歩かれていたものである。
また、城山を賀茂三笠山と言い、町中を貫流する川を賀茂川(現在加茂川)と呼んだのは全て当神社に因んだものと言われている。往古より賀茂皇大明神と称えていたが、明治元年神社改正により賀茂神社と改め、昭和三十六年稲荷神社天満宮を合祀し、神社名を「賀茂神社 天満宮」と改称した。
神体山賀茂三笠山
米子の地名発祥ゆかりの神社
米子の起源
昭和六年一月、内藤英雄が書き残した文書に、村河興一右衛門直方(幕末の武士。文政7年生まれ。因幡(いなば)鳥取藩の家老荒尾氏の家臣。長州征討反対を主家に建言するなど,尊攘(そんじょう)派として活動。)の研究という書がある。この書の中に河崎富衛が述べた米子の起源について纏めた項がある。
そこには、こう書いてある。
余が幼少の時、外曾祖父は余に向かって「賀茂神社の境内にある古井はよなご井といって汝の産湯をいただいた井であるから生涯崇敬せよ」と告げて次の昔から伝わった口碑を語った。
賀茂神社の境内にある井は極古い井で、昔此の地に住む漁民が飲料水に供するために掘ったものである。その頃は賀茂神社境内の西辺りまで湾で海岸の漁民が一部落をつくり暮していた。古は「米をとぐ」と云う事を「よなぐ」と云ったので「よなぐ井」そして「よなご井」と云った。全く後の世の言葉で「米とぎ井」或いは「飲料水」の意味である。
其の後海面もだんだん埋まって陸が廣くなるにつれ住民も多くなり、いつとなしに井の名を取ってこの部落を「よなご」と呼んだ。飯山に吉川元春が砦を築き、其の麓の部落である此の地を「米子」と云う文字を当てたのである。「米子井」即ち「よなご井」の口碑こそ米子地名起源であることは疑うべくもない。(途中省略)
最後に、米子市が益々発展するにつれて市としては此の井の保存に総力を入れらんことを望んでやまないところである。と閉じている。(よなぐ=よねあぐの意にして米を洗い上げる意味也)
米子城ゆかりの神社
鳥取県神社誌、米府神社由来記によると「賀茂神社」は米子城鎮護の社とされ、軍神「湊山八幡宮」が合祀される以前から毎年正月、五月、九月には御天守に祈願札を納めたと記載あり。元来、例祭日を九月九日としたのも此れに基く事也と推察される。又、昭和36年「賀茂神社」と「稲荷神社・天満宮」が対等合併により合祀されて以降、例祭日を五月一日としたのもこの古書に記された事に基くとされる。当神社は、天正19年(1591)吉川広家の命によって米子城築城に着手される以前より鎮座していたのは近辺の発掘調査により明らかではあるが、その証拠となる書物が無いのは残念である。
地形から見ても米子城の内堀(外堀から中)に位置し、城主を始め士族の崇拝する格式高い社で、城下郭内に鎮座する神社であるため士族によって厳かに祭礼祭事を営まれたことであろう。同郭内に稲荷神社、天満宮、八幡神社(現在は総て賀茂神社に合祀されている)が鎮座するが、米子城を築く前は賀茂神社の神体山であった事から当社への配慮は格別なるものだったと想像できる。現在、例祭日を7月25日と定める背景にも、9月9日→6月19日→7月19日→5月1日と変更された事例がある。鳥取県神社誌、米府神社由来記にはこれらの月日が例祭日として出てくるが、全て正しくその時代にはその日と定めて祭祀を執り行っていた。今では米子城縁祭として「五月一日」と「九月九日」には厳かに祭祀を執り行っている。